聞いた話なんですが、「言い合い」で相手を負かすためには、相手の言っていることを聞いてはだめだ、自分の言いたいことだけを一方的にまくし立てることだ、そうです。
それだったら「対話」にならないですよね。
しかし、今、言論の府で「対話」にならないことが起こっています。質問されたことに対してまともに答えず、自分が言いたいことを長々と喋って質問時間を空費させてしまう。これは、「作戦」なんですかね。
そんな人が「国民の代表者」として「権力」を行使することを、主権者たる国民が許していていいわけはありません。
「国民が主権者なのは選挙の時だけ」と自嘲的に語る向きもありますが、そうではありません。24時間365日、ずっと国民が主権者です。
この間の「検察庁法の改正(改悪でしょうね)」「種苗法の改正(これも改悪)」にさいして声を上げた人たちに対し、それを攻撃する動きが起こりました。大変よくないことです。
意見の違いをたたかわせるのではなく、意見を言うことそのものを非難する。それは、主権者であることを自ら投げ捨てることです。攻撃する相手だけでなく自分自身の主権も投げ捨てているんですよ。
振り返って、私たち合唱をする者が大切にしなければならないことは「聴くこと」です。「上手に歌おう」と思えば「歌うこと」以上に「聴くこと」が大切です。
聴くことで、歌い手同士がアンサンブルを作れます。合唱になります。聴き手が聴いている様子を「聴く」ことで、演奏の深まりを生み出すこともできます。
歌い手と聴き手は交流しているはずです。
耳を澄ませばは、少年少女のための合唱組曲「私が呼吸するとき」のなかの一曲で、戦争などの犠牲となった子どもたちの、言葉として発することのできない怒りを描いた曲です。目黒区立大岡山小学校の児童が歌っています。
この子どもたちに、私たちはどんな未来を残すのでしょうか。